資料館・博物館
芸北民俗芸能保存伝承館

☎:050-5812-5088
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中国山地のただ中に位置する芸北地方(広島県北西部)では、四季おりおりにさまざまな民俗芸能が行われている。1階では、春夏秋冬の農作業の流れに沿って、それぞれの季節ごとの民俗芸能を紹介。民俗芸能やその背景にある農村の暮らしの道具を展示している。2階では、芸北地方の民俗を研究された新藤久人氏の収集品の一部を展示し、農村の暮らしについて別の角度から考えられる。
芸北民俗博物館

☎:0826-37-0048
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ダム建設により「聖湖」湖底に没した樽床集落及び周辺地域で、昭和30年代に収集された生活用具を収蔵展示する資料館。 ダムの水没地から移築した、「中門造り」の民家も併設している。
古保利薬師収蔵庫

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正式には「古保利薬師福光寺」といい、平安時代に弘法大師により開基されたと伝えられている。本尊薬師如来や日光・月光菩薩など12躯が国の重要文化財に指定されており、収蔵庫で全て見ることができる。境内山門のそばには、落雷によって折れてしまったが、県の天然記念物の樹齢1000年を誇る大ヒノキもある。
大朝郷土資料室

☎:050-5812-3775
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「大朝地域のはじまり」「稲作とむらの形成」「弥生時代の集落」「古墳と国家の成立」「さまざまな古墳」のコーナーに分け、実物資料や解説パネルで,原始・古代について紹介している。吉川氏の居城であった小倉山城の出土品も展示してある。
川東はやし田 用具収蔵庫

☎:050-5812-1864(町教育委員会)
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この地方に古くから伝わる「田ばやし」を奏しながら田植をする「はやし田」の楽器、服装品、農具など国の重要有形民俗文化財に指定される品々が収蔵される。
史跡
坤束製鉄遺跡

☎:050-5812-1864
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町内には古代から中世にかけての製鉄遺跡が200余りも確認されており、鉄の生産が盛んに行なわれていたことを物語っている。 坤束製鉄遺跡を発掘調査後、当時の製鉄場の姿をそのまま復元展示し、公園として整備している。
山県製鉄所跡

☎:080-6339-2136
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明治34年から大正12年にかけて、最盛期には常時300人くらいの人が働いており、年間30万トンの鉄を作ったと言われている製鉄所跡。ここら一体を地元の人は溶鉱炉と呼んでいる。現在残っているのは補修され、近代遺産として残された煙突のみ。近代の製鉄に、思いをはせてみては?
城岩

☎:080-6339-2136
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巨岩城岩は、城岩山(標高829.6m)の頂上からやや北よりの傾斜地にある。岩の高さは東側5m、北側11m、西側9m、南側3m。岩の上面はほぼ四角形で、少し北面に傾いている。広さは、周囲32m、広さ約30㎡。別名八畳岩というが、雄鹿原合戦の時、栗栖権頭が一時この巨岩を根拠地として陣を敷いたので、城岩と呼ばれるようになった。 眼下には雄鹿原集落のおよそ7割が展開し、阿佐、冠、雲月、大佐掛頭等の山々が展望できる。(現在は木々が生い茂り、見づらくなっている) また、9月下旬のイベント、乙九日炎の祭典の時には、八幡神社とあわせてライトアップされ、巨岩城岩が闇に浮かんで見える。
金剛庵(殿塚・郎塚)

☎:080-6339-2136
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雄鹿原合戦で敗れた栗栖権頭とその従者7人が自刃した場所に金剛庵が建立されている。殿塚は栗栖権頭の墓、朗塚は従者の墓。金剛庵の近くに残っている。
熊谷元直 最期の地

☎:082672-6908
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三入高松城主である熊谷元直は武田元繁らによる有田中出の戦いに参戦し、緒戦で吉川・毛利連合軍と戦った。しかし、吉川家臣の宮庄経友によって打ち取られた。
武田元繁 最期の地

☎:0826-72-6908
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武田元繁が打ち取られたとされる場所。有田合戦の緒戦で敗戦し、熊谷元直が討死にしたことから激高した元繁は翌日、自ら主力軍を率いて毛利・吉川連合軍を攻撃する。武田軍はおおむね優勢に戦を進めるが、少数ながら粘り強く抗戦する毛利・吉川連合軍を打ち破るべく、自ら騎乗して又内川を渡ろうとした。そこに毛利軍が一斉に矢を放ち、矢を受けた元繁は落馬して毛利軍の井上光政に打ち取られた。(諸説あり)大将の死によって有田合戦の勝敗はだんだんと毛利・吉川連合軍が優勢になっていく・・・。
己斐宗瑞 最期の地

☎:0826-72-6908
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己斐宗瑞が討死したとされる場所。有田合戦で大将の武田元繁が討たれたのを受け、己斐宗瑞は弔い合戦として毛利軍に突撃。討死した。
有田城跡

☎:0826-72-6908
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四つの郭と郭の北西端を固める土塁が残っている。城主は山県一族有田氏と思われ、東の壬生氏、西の今田氏とともに、室町から戦国時代初期にかけてこの地域を支配していた。1515(永生12)年、中国地方に大きな勢力を持っていた山口の大内氏に対し、銀山城(広島市安佐南区)の武田元繁が反旗をひるがえし、壬生氏・有田氏・今田氏も従軍した。これに対し、大内氏の命を受けた郡山城(高田郡吉田町)の毛利氏によって有田城は攻撃され、落城した。
壬生城跡

☎:0826-72-6908
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壬生地区の中心地にあり、壬生氏によって築かれた壬生城本丸址を整備した公園。公園の南側を中心に、土塁や堀があり、それに合わせて門や石垣が復元されている。堀の内側に沿う土塁の上にエドヒガンザクラやつつじがあり、春にはまるで堀に降り注ぐかのように綺麗に咲き誇り、多くの人の目を楽しませてくれる。中央には大きな噴水があり、公園内に壬生町歴史民俗資料館・壬生町立図書館、城址公園ホールなどの公共施設がある。
今田城跡

☎:0826-72-6908
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室町・戦国時代(15~16世紀)に今田氏が拠った現千代田町今田の谷の最奥部に位置する城館遺構。城郭は,今田の谷の最奥部,南側に今田川を臨む標高461m(比高110m)の最高所から南東側に延びる尾根を加工している。1~4の郭のほか,若干の土塁跡と井戸,虎口と竪堀が見られる。この城跡からは盆地全体を眺望でき,壬生城・有田城とは指呼の距離にある。さらに北には,寺原城,日山城らも遠望できる。このことは,今田城が,この谷を本領域とする今田氏の支配拠点としてのみならず,この地域の在地領主と結束し,在地の支配秩序を維持していくうえにきわめて適した場所を選んで構えられていたことを示している。館跡の石垣の築法は,吉川元春居館跡のそれに類似している。館跡の左奥には築山・池・水路をもつ庭園跡が残っている。現在,城館跡全体は松雑木林・水田として良好に保存されている。
安芸吉川氏関係
戦国の庭歴史館

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戦国の庭歴史館は国史跡吉川元春(きっかわもとはる)館跡歴史公園に隣接した展示施設。歴史公園として整備した小倉山城、万徳院跡、吉川元春館跡の発掘調査成果や整備内容・出土品を中心に展示している。戦国時代にタイムスリップしてみよう。
吉川元春館跡歴史公園

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戦では76戦無敗。無敵の武将、吉川元春は毛利元就の次男。晩年、嫡男の元長に家督を譲った際、隠居館として建築したのがこの吉川元春館。残念ながら元春の存命中に完成せず、嫡男の元長も病死した為、主に元長の弟、吉川広家が月山富田城に移るまで使用していたとされる。その後約400年、田畑や森に埋もれていたが1986年に国の史跡に指定され、1994年~1998年にかけて学術的な発掘調査がされた。戦国の庭歴史館という資料館も併設しており、発掘物などを見ることができる。公園ということもあり、ピクニックや軽い運動、周辺の川では川遊びも楽しめる。元春・元長墓所では毎年8月に墓前祭が斉行される。
万徳院跡歴史公園

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1574(天生2)年頃、吉川元春の長男、吉川元長が自らの死後の菩提寺とするため建立した寺院の跡。1991年から始まった発掘調査によって本堂跡・庫裏跡・風呂屋跡・水道施設・庭園跡・炭窯跡・法華経版木・竹製裏目物差しなど多くの遺構や遺物が見つかると同時に、寺院の建立で発揮された人々の様々な知恵や技術が明らかになった。毎月第3日曜(12月・1月・2月を除く)には実際に蒸風呂入浴体験ができます(着衣のままで可)
小倉山城跡歴史公園

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正和2年(1313年)吉川経高が駿河国吉川邑から安芸国大朝庄に移住し、当初駿河丸城を居城にしていたが南北朝末期に吉川経見が近隣に小倉山城を築いた。以後「鬼吉川」と呼ばれた安芸吉川氏の拠点として栄えた。現在も多くの遺構が残っており、歴史公園として整備されている。近くの図書館や観光案内所では御城印を購入できる
日山城跡

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1550年(天文19年)に吉川氏の家督を相続した吉川元春は、火野山にあった城を再整備し、小倉山城から移ってこの日山城を本拠地とした。元春は城を整備拡張し、元春から元長、広家の3代に渡って拡張整備工事が続けられ、全山が要塞化された。1582年(天正10年)、吉川元春は隠居すると山麓に隠居館(吉川元春館)を築き、そこに住むようになった。近くの図書館や観光案内所では御城印を購入できる。
常仙寺跡

☎:0826-72-6908
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毛利元就によって謀殺された吉川興経の菩提所と伝えられ、日山城跡の東麓大手筋にある。境内には墓所がある。日野山の登山口(中山峠側)。
枝宮八幡神社

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吉川氏が大朝本庄に定住する以前からあった古い神社だが、 現在の本殿は1757(天正3)年に吉川元春・元長父子が再建したもの。 三間社芸備造り、屋根は流れ造り、銅板葺き。 龍山八幡神社本殿を小さくしたようなものであること 地方工匠の作であることなどの価値から、木造狛犬一対と一緒に広島県の重要文化財に指定されている。。
龍山八幡神社

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1313(正和2)年吉川氏が大朝本庄地頭として入封のおり、 駿河国吉川村(現静岡県清水市)から勧請した神社。 現在の本殿は1558(永禄元)年に吉川元春が再建したもの。 本殿は県下では嚴島神社につぐ室町時代の数少ない神社建造物で、 三間社芸備造り、屋根は流れ造り銅板葺きの建築様式。 1962(昭和37)年国の重要文化財に指定。 重文としての本殿の特色はその彫刻にあり、正面3個のかえる股は室町時代後期の代表的なもの。