広島県北西部に位置する北広島町に鎌倉時代末期、正和2(1313)年に東国武士吉川氏が大朝本荘に地頭職として来往し、天正19(1591)年出雲の国月山富田城に移るまでのおよそ280年の長きにわたってこの地域を本拠地として支配し、この間の吉川氏のことを安芸吉川氏と呼び、歴史と共に産業・文化は大いに栄えた。
北広島町には吉川氏関連の駿河丸城跡・小倉山城後・日山城跡の中世山城や、万徳院跡・常仙寺跡などの寺院や墓所、元春館跡・松本屋敷跡などの国指定史跡のほか、ゆかりの龍山八幡神社や枝宮八幡神社、吉川氏の経済基盤であった鉄の生産にかかわる小見谷製鉄遺跡、城下を支え商職人が活躍した中山市跡や下石市跡など、吉川氏を取り巻く多彩な環境が自然景観とともに残されている。併せて吉川氏に由来する南条踊りや本地花笠踊りなど、伝承されている民俗芸能もある。

詳しく知りたい方は
吉川元春館跡・戦国の庭歴史館へ!

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歴史的に価値が高い遺物展示や、わかりやすい解説、ビデオコーナー、当時の衣服試着など体験コーナーも充実!歴史公園では国の名勝「吉川元春館跡庭園」をはじめ、当時の生活の名残が見て取れる。ぜひ、足を運んでみて。

住:北広島町海応寺255-1
:0826-83-1785
営:9:00~16:30
休:月曜(祝日の場合は翌日)
料:大人300円・高校生100円
      中学生以下無料

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以下に安芸吉川氏で有名なエピソードを紹介する。
※真偽については諸説あり。



 

 

 

 
吉川経基は、応仁の乱の折、西軍の山名宗全の軍と洛中において壮絶な死闘を展開し、その勇名を全国に轟かせた。畠山義就と京都相国寺付近で死闘を繰り広げた際は不利な状況にも関わらず、配下を叱咤激励して陣地を死守し、畠山勢に徹底的な反撃を加え、その戦の強さに対して「鬼吉川」という異名をとった。
経基は強健な身体を持ち勇猛豪胆な武将であっただけではなく、文学にも親しみ、和歌にも造詣の深い、智勇兼備・文武兼備の武将であったと言われている。また、当時としては珍しく、82歳まで現役で、93歳で天寿を全うした。
北広島町では逸話から名前をとった、「どぶろく 鬼吉川」が販売されている。

吉川経基は、応仁の乱の折、西軍の山名宗全の軍と洛中において壮絶な死闘を展開し、その勇名を全国に轟かせた。畠山義就と京都相国寺付近で死闘を繰り広げた際は不利な状況にも関わらず、配下を叱咤激励して陣地を死守し、畠山勢に徹底的な反撃を加え、その戦の強さに対して「鬼吉川」という異名をとった。
経基は強健な身体を持ち勇猛豪胆な武将であっただけではなく、文学にも親しみ、和歌にも造詣の深い、智勇兼備・文武兼備の武将であったと言われている。また、当時としては珍しく、82歳まで現役で、93歳で天寿を全うした。
北広島町では逸話から名前をとった、「どぶろく 鬼吉川」が販売されている。

 
毛利元就の次男、吉川元春の生涯戦績はなんと76戦64勝12分、勝率100%という圧倒的な数字。あの有名な織田信長が58勝19敗7分勝率74%。戦国最強と言われた軍神、上杉謙信でさえ71戦61勝2敗8分、勝率97%というのだから元春の数字がいかに凄まじいものだったかが分かる。生涯49勝9敗2分という圧倒的な数字を残した父にも「我は戦では元春には及ばぬ」と讃えられた。吉川元春ゆかりの史跡に訪れるとそのパワーをもらえるかも!?
無敗の元春だが、実は一度だけ負けたことがあるとされている。それは幼き日のこと、弟の小早川隆景と雪合戦をしている際、1回目は元春が隆景をボコボコにして大勝利。しかし、2回目は対策を練って作戦を立てた隆景に負けてしまった。本物の戦では戦うことがなかった2人だが、もし戦っていたら・・・と考えてしまう。

毛利元就の次男、吉川元春の生涯戦績はなんと76戦64勝12分、勝率100%という圧倒的な数字。あの有名な織田信長が58勝19敗7分勝率74%。戦国最強と言われた軍神、上杉謙信でさえ71戦61勝2敗8分、勝率97%というのだから元春の数字がいかに凄まじいものだったかが分かる。生涯49勝9敗2分という圧倒的な数字を残した父にも「我は戦では元春には及ばぬ」と讃えられた。吉川元春ゆかりの史跡に行くとそのパワーをもらえるかも!?
無敗の元春だが、実は一度だけ負けたことがあるとされている。それは幼き日のこと、弟の小早川隆景と雪合戦をしている際、1回目は元春が隆景をボコボコにして大勝利。しかし、2回目は対策を練って作戦を立てた隆景に負けてしまった。本物の戦では戦うことがなかった2人だが、もし戦っていたら・・・と考えてしまう。

 
 
吉川元春の正室は部下の熊谷信直の娘で「新庄の局(しんじょうのつぼね)」といい、不美人で有名だったという逸話がある。※諸説あり
元春はその娘を自ら望んで嫁にしようとした。なぜそんな娘を嫁にもらうのかと尋ねると「信直の娘は醜く誰も結婚しようとはしないので、もし元春がれば信直は喜び、元春のために命がけで尽くすだろう」と話したそう。この嫁取りは猛将で知られる熊谷信直の勢力を味方につけるという目的があったとされるが、夫婦仲はとても円満で、子どもも多く生まれ、新庄の局は良妻賢母だったようだ。また、元春は生涯側室を持たなかった。この逸話は三国志の孔明の嫁取りになぞらえて、元春の嫁取りと呼ばれてる。

 

吉川元春の正室は部下の熊谷信直の娘で「新庄の局(しんじょうのつぼね)」といい、不美人で有名だったという逸話がある。※諸説あり
元春はその娘を自ら望んで嫁にしようとした。なぜそんな娘を嫁にもらうのかと尋ねると「信直の娘は醜く誰も結婚しようとはしないので、もし私がれば信直は喜び、私のために命がけで尽くすだろう」と話したそう。この嫁取りは猛将で知られる熊谷信直の勢力を味方につけるという目的があったとされるが、夫婦仲はとても円満で、子どもも多く生まれ、新庄の局は良妻賢母だったようだ。また、元春は生涯側室を持たなかった。この逸話は三国志の孔明の嫁取りになぞらえて、元春の嫁取りと呼ばれてる。

 

 
 
安芸吉川氏最後の当主、吉川広家。幼少時代は礼儀作法がなってないなど「うつけ」で父元春を嘆かせたり、当時相続していた吉川氏一族の宮庄氏の所領が少ないことを理由として小笠原長の養子になろうとしたが毛利輝元の猛反対を受けて破談となったりと、破天荒な人物だったようだ。しかし父譲りの戦のうまさは健在で、しばしば毛利家の別働隊を指揮し功を挙げて、秀吉から日本槍柱七本の1人と賞讃された。関ケ原の戦いでは毛利家として西軍に属しながらも東軍の勝利を確信しており、毛利家存続のため徳川家康と内通し、参戦しないことで毛利の領土の保全を約束したが、これを家康は反故にし、広家だけに領土を与えた。これに対して起請文を出し、なんとか毛利家の領土を確保した。破天荒ながら誰よりも毛利家の未来を考えていた。

安芸吉川氏最後の当主、吉川広家。幼少時代は礼儀作法がなってないなど「うつけ」で父元春を嘆かせたり、当時相続していた吉川氏一族の宮庄氏の所領が少ないことを理由として小笠原長の養子になろうとしたが毛利輝元の猛反対を受けて破談となったりと、破天荒な人物だったようだ。しかし父譲りの戦のうまさは健在で、しばしば毛利家の別働隊を指揮し功を挙げて、秀吉から日本槍柱七本の1人と賞讃された。関ケ原の戦いでは毛利家として西軍に属しながらも東軍の勝利を確信しており、毛利家存続のため徳川家康と内通し、参戦しないことで毛利の領土の保全を約束したが、これを家康は反故にし、広家だけに領土を与えた。これに対して起請文を出し、なんとか毛利家の領土を確保した。破天荒ながら誰よりも毛利家の未来を考えていた。

安芸吉川氏関連のパンフレットは下記からダウンロード!
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